秋冷の函館
−北海道二都物語−
 
<五稜郭・立待岬・元町>


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 港の全景が視界に開けると、その安全性と広さ、そして出入港のしやすさにみなが驚きの声を上げた。町は港の東側にあり、松前の東25里にあった。戸数は千戸と称せられ、艦上から眺めると、倉庫でもあろうか、大きな建物が目につく。家々は丘の斜面に立ち並び、そうした街のたたずまいからして、すべてが下田に勝っていることを示している。


 嘉永7年(1854)4月21日、米国ペリー艦隊が始めて訪れた函館の様子を上記のように綴っている。椴法華村・恵山町から穏やかな津軽海峡を左に眺めながら、函館に戻った。海岸線の道を恵山(えさん)国道というが、風光明媚な港町がどこまでも続く。やがて海の向こうに函館山が姿を現した。

<アイヌの反乱>

恵山国道から津軽海峡を 途中「志海苔(しのり)」という地名がある。
鎌倉から室町にかけて、その志海苔川から砂鉄が取れ、和人が住み着き鍛冶屋村を形成していたという。やがて和人の武装集団が播居し、あるいは渡(わたり)とよばれる流浪の民も出没し海岸線にいくつかの村ができた。

 1456年のあるとき、ある鍛冶屋にアイヌがマキリ(アイヌ刀)を頼みに来た。
完成したのはよかったが交渉でこじれ、鍛冶屋はそのアイヌを殺してしまった。それが反乱の誘引になり、各地で常日頃から不満を持ったアイヌが立ち上がり和人部落を次々と襲った。なにかアメリカインディアンの生存をかけた戦いに似ている。狩猟に長けていたアイヌ軍は強靭で、ほとんどの和人の基地は滅んだ。

 そのアイヌの酋長・コマシャインを討ったのが若狭から移住した松前氏で、結果松前氏の蝦夷支配は徳川管理体制の下で幕末まで続くことになった。しかしかれらは良港函館を選ばず、山が迫り港湾の条件の悪い福山(現在の松前町)にあえて城を構えた。常にアイヌの襲撃を恐れたという理由によって・・・。

<五稜郭 ふたたび>

 恵山からの函館の玄関口は「湯の川温泉」。湯の川には、海峡に面した海岸線に、下北半島・大間崎と対峙するように多くの名旅館が立ち並ぶ。道南随一の名湯といおうか、函館の奥座敷というのが正しいのか、歴史をつづる湯の宿がしのぎを削っている。

 湯の川から道を右にとり、五稜郭のパーキングに車を置いた。

函館五稜郭 郭を巡って星型に鋭角に曲がる濠の特徴は、ここにしかない。
 この奇妙な五稜形は、建設の指揮をとった武田斐三郎が「近代戦における、守備の際の死角をなくす」ために設計したという。1857年に着工、1864年に完成した。

 5年後の1869年(明治2年)5月、榎本武揚・大鳥圭介・土方歳三らはこの城を背景に最後の戦を展開した。武運拙く西軍の火砲の前に敢無く惨敗を喫し、武士の世は潰えた。
 もともと函館奉行所(徳川幕府が北方防備と蝦夷地の開拓のために設置)を守るために築かれた西洋式要塞だが、最初で最後の戦が内戦の舞台となったのは皮肉。

 その後1872年(明治5年)、新政府により城砦も取り壊されてしまったので、五稜郭の生命はわずか8年ということになる。

聳え立つ五稜郭タワー 建物にも生命があると考えれば、血税で賄った稀代の要塞も8年の命では、哀れ無残というしかない。説明書きには「旧幕府脱走軍・榎本武揚らによって占拠され」と書かれている。書き方にもっと工夫がないものかと考えるのだが、かれらは現代にまで賊軍としての扱いが続いているようである。

 隣接する方形のタワーからは四囲を俯瞰できる。紅葉の森とお堀を近景にして、函館の町のすべてと、北には遠く七飯(ななえ)の山々を、南には正面から射す秋の光芒の中に函館山のシルエットが・・・。


立待岬より函館市内を望む<立待岬>

 幕末、欧米列強は弱小アジアに食指を伸ばし、鎖国中の日本近海にもしばしば姿を現した。幕府は函館山の裏側に、津軽海峡を航行する外国船監視のための要塞を設けた。当時の立待岬は、軍事的な色彩を帯びた要衝であった。

 1854年の日米和親条約により函館が開港してからもその緊張感は続く。


<ロシア・ウラジオ艦隊の通過>

 日露戦争開戦の明治37年7月30日午後、ロシアの誇る一等巡洋艦「ロシア」、「グロムボイ」、「リューリック」と、いずれも1万トンを越える当時としては巨艦三艦が威風堂々と津軽海峡を東から西へ(帰路)単縦陣で通過した。

 函館山の要塞砲が撃ちだしたのだが、射程距離が短いためにずっと手前で水柱があがるだけ。かれらはあざ笑うかのようにその向うを西進していったという。
 なにしろ真昼間のことで、函館中が大騒ぎになった。
 「こんな国と戦争しても勝てるわけがない!」と感じた人は多かったはずだ。

 しかしその10ヵ月後、司令長官東郷平八郎が指揮する、戦艦三笠を旗艦とした日本艦隊は新式のロシアバルチック艦隊と日本海でわたりあうことになる。
 「天気晴朗なれど波高し」の打電が歴史に残るが、結果としてロシア艦隊を殲滅してしまう。
 戦果を総合すると、38隻の敵主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、残り3隻の小艦艇が目的のウラジオストックに到達したのみであった。
 予想もしなかった大勝利に日本は酔った。

 結果として日本は軍事国家としての道をたどる・・・



立待岬の夕陽  その後、明治40年漂泊の詩人・啄木は短い滞在の間に著名な句を残した。

「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」
「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」

 昭和初期、与謝野鉄幹・晶子夫妻もここを訪れ歌を詠み、石碑が残されている。

 近いところでは森昌子の「立待岬」という歌謡曲もある。しかしこのきれいな夕陽は歌にするのも惜しいくらいだ。

 好天に恵まれ南に下北半島を、西に松前半島を、いずれもくっきりと遠望することができた。眼下には、赤い夕陽に向かって進む漁船が波間に揺れ、ひどく頼りなげに見えた。

<続く> 「3夜景」へ

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